映画 えんとつ町のプペルを真面目に観た。ダメ映画だと感じた理由を全部解説する。
お久しぶりです。もともと更新していないブログを1年半ぶりに動かしました。
理由としては先日観た映画「えんとつ町のプペル」があまりにも衝撃的だったから。
一部で「西野のサロン云々を抜きにして映画の出来は良い」とか言われてたけど全然そんな事なかった。
この映画のダメだった部分を書き出していったら気づいたら7000字になっていたので伝えたい。長いけどよかったら是非。
アマプラで無料で観られるようになったよ!
金払って映画館で観た俺に謝ってほしいね!!!
Amazon.co.jp: 映画 えんとつ町のプペルを観る | Prime Video
この記事はネタバレを大いに含みます。
すべての違和感を説明する都合上、ストーリーの核心も大いに明かしています。
少しでも「プペルの映画を観てみようかな」と思ってる方は読まないほうが良いです。
映画プペルをボロカスに言っているので、
・この映画が大好きな方
・西野亮廣さんが好きな方
・サロンメンバーの方
にこそ、「こういう考え方もあるよ」ってことで読んでほしいけどそれはそれで面倒くさいことになりそうだな・・・
まず、お前誰やねんってとこから話すと、映画はそこそこ好きだけど月1~2くらいのペースくらいでしか見てない一般男性(27)です。
映画の手法とかもそこまで知りません。ちょっと映画見てるくらいのオタクの感想として読んでくれるといいと思います。
好きな映画は「ゴーンガール」や「9人の翻訳家」「ナイブズ・アウト」、
邦画だと「アフタースクール」、「キサラギ」といったミステリ系。
「ここはこういう手法だよ」とか「ここはアレを示唆してるよ」って気づいてないことがアレばコメントに残してくれるとありがたいです。独りよがりな感想なので。
ただ、 「子供向け映画なんだから大人が映画見てストーリーや伏線に文句言うのは大人げない」的なコメントはやめてください。
クリエイターは子供向けだからと言って手を抜かないです。そんな半端な気持ちで映画を作ってる人はいません。多分。
感想を語る上での前提として、西野亮廣自体は好きでも嫌いでもないですが、サロン等含め明確に胡散臭い人物として見てます。絵本で絵を描いてる人のクレジットを消して全部自分の手柄にしたりとか、サロンでマルチまがいの80プペ騒動とかね。ゴッドタンで服をビリビリにされる西野は好きです。
この作品をちゃんと観るためにわざわざ絵本も読みました。
当初は西野と作品を切り離してプペルを観ようと思ったんですが、そこら中に”西野の胡散臭い部分”が漂っていて、切り離して観ることは不可能でした。
正直、バイアスが掛かった感想です。
何も知らない人にさらっとストーリーを説明する。
煙突モクモクの空が見えない世界で主人公のルビッチがゴミ人間のプペルと出会う。
死んだ(失踪した?)父親が創作して馬鹿にされていた「雲の上にあるらしい『星』」を見るために、馬鹿にする同年代の子供たちや、制止をする異端審問官(=国)に対抗する。
どうやらプペルには父親の魂が宿ってるっぽい。
海に投棄された船に気球にし、無煙火薬で雲を爆破し、星を市民のみんなに見せることができました!
国王も星を見て鎖国を解く。
プペルはバラバラになったけど星をバカにしていたみんなに見せることができてハッピーエンド!
こんな感じ。
まずはプペルの良かったところ!面白かったところ!
・絵が綺麗!STUDIO 4℃すごい!
・キャストほぼ全員俳優なのにみんな上手い!特に主人公のルビッチ役の芦田愛菜がすごい!
・技術屋のお姉さん(ドロシー)がかわいい
・アントニオ(ガキ大将)の秘めたる思い
・刃牙ハウスのオマージュ
・国王が異端の発生の報告を興味なさげに貨幣をハンドスピナーにして回して聞く所
・空に浮かぶ方法が原作の”突然湧いて出てきた風船数百個”から”気球”になった
(煙だらけの空に覆われた世界でなぜ気球のノウハウが存在してたのかは謎)
以上だ!!
続いて当記事の主旨、プペルのダメだったところ!
目標としての『星』があまりにも弱すぎて話が薄い。
まず、鎖国の理由が「貨幣を時間で腐敗するようにして流動性を高めたら中央銀行に怒られたので逃れて楽園を作りました!」って感じでこの話自体が”サロン”そのもので嫌でも西野の顔が浮かんで気持ちが悪い。この深堀りいる?
鎖国にあたって、「バケモノがいるという理由で海を塞ぐ」って理由は分かるけど、「空と星を見せない」って行動原理にすごい違和感を感じた。
西野曰く、この映画は「夢を持つと笑われて、行動すれば叩かれる社会」という世界をえんとつ町に置き換えてその世界を変えたい、「挑戦者が笑われる世界を終わらせに来た」ってテーマ込められているらしい。
「父親が語っていた『星』を見る。いや、みんなに見せるんだ!」ってのがルビッチの行動原理で、これを笑って叩いてる市民。
観客は星という存在を知ってるからバカにする市民を蔑んで観れるんだけど、メチャクチャな暴論として「グルの教義に帰依するんだ!みんなポアだ!」という行動原理にしたら観客は「なんだこいつ」ってなるし、西野が言いたかった「夢を持つと笑われる社会を変えたい」って成立するし、”信念”を美化しすぎ。
原作の絵本ではルビッチ自身が星を見るだけで終わっているが、映画になり「街のみんなに星を見せる」という方向性になり、この宗教的なヤバさがより助長されている。
しかも市民を危険に晒しかねない”上空で火薬を爆破させる”という本来の意味での確信犯のテロ行為を礼賛しており、星を主題にしても非常に危険で過激な描写となっている。
同じディストピア世界の進撃の巨人の世界観で例えると、エレンが「『海』を見たいんだ!みんなも外の世界を見たいだろ!?」って言って市民と憲兵団を振り払って、壁を爆薬で爆破する感じ。
壁の外に巨人がいなくてよかったね。
とにかく価値観ができあがってない子供(大人も含むか…)に見せるには危険な映画かなと思いました。
舞台装置や伏線の置き方が雑
最初のハロウィンダンスに感じた違和感
舞台はハロウィンの夜。仮装した子どもたちがダンスを踊り、お菓子を集める。
そこにゴミに命が宿って生まれたゴミ人間であるプペルが交じることでストーリーが始まる。
これから物語が始まるんだな〜という、俯瞰で世界を眺めるシーンから、
”客席を向いてキレキレのダンスをする”
40秒のメイキング動画が公開されていて、このシーンの雰囲気が伝わるのでまあ観てほしい。
第四の壁を取り払う演出があまりにも急すぎるし、あまりにこのシーンが異質すぎて現実に引き戻される。
生まれたてのプペルも、小学生くらいの子どもたちもダンスがクソ上手い。
モーションキャプチャーしてるから当たり前なんだけど。
このシーンには「この踊りを流行らせたい!あわよくばハロウィンの定番にしたい!」という商業主義の意思が透けて見えて気持ちが悪かった。
そのために映画に登場する子どもにこのシーンだけダンサーを宿すことも厭わない。
キャラクターに愛着はなく、所詮映画を進めるための駒でしか無い。
そうとしか捉えられなかった。
★のマークに感じた違和感
まずはこの画像を見てほしい。ルビッチとプペルがダンボールで模型を作るシーンだ。
そもそも『星』という概念が存在しない世界が舞台なのに『星』と認識して使用される「★マーク」の存在。空は煙に覆われ、太陽も月も星も誰も見たことがないはずなのに、このシーンは本当におかしい。
この作品は世界観に一貫性が存在しない。あまりにも作りが稚拙。
このシーン以外にも
ルビッチのシャツが破れプペルに補修を頼んでいたが、プペルが約束を破ったことに怒ってルビッチが家に帰ってしまう。
プペルの腕には★のアップリケで補修したルビッチのシャツだけが残る……
という感動(させたい)シーンがあるのだが、
★マークのアップリケ!?(おそらく既製品) Wait... what? ....?
他にも
「地上に植物はないけど土の中に化石がある」というシーンの直後に、家に帰るとそこには母親の作った食事が待っている。
子供思いでバランスがしっかり考えられているのか、食卓には野菜が並ぶ。
そう、野菜が並ぶ。野菜が並ぶのだ。
一応現在も植物工場とかでサラダ菜を作ってるので辻褄が合わないことはないが、完全にギャグシーンだが……
【異端審問官】という違和感
国側の異端審問官を設置する理由がきちんと語られないから、余りにも存在が浮きすぎ。一切対立構造にならず、観客から見てルビッチたちの邪魔をする単純な”悪”としての象徴となっている。
ぶっちゃけここは警察でもいいんだけど、そうするとルビッチたちが”悪”になってしまうから、都合の悪いことを隠すために異端審問官という異質な存在になってしまったとしか考えられなかった。
その割に、生前父親が「雲の上には『星』があるんやで〜!」って何度も紙芝居を街で見せてるんだが特に異端審問官が来るわけでもなく、それでいて見ていた市民が「『星』なんかあるわけねえだろ!!!」ってボコボコに父親を殴るという無茶苦茶な世界。
ちなみにのちにルビッチも「『星』はあるんだ!」って言ったらガキ大将にボコボコに殴られます。
市民、いくらなんでも好戦的で暴力的すぎひんか???
一方で、プペルが街に現れると、即日「ゴミ人間が出た!」って異端審問官がお触書を出して、追われる身になる。
いや、ゴミ人間=異端って何・・・????
父親の行動のほうがよっぽど異端だが・・・(最終的に粛清されるが)
「市民に外の世界を知られないようにする」ってのが異端審問官の存在理由なはずが、星を信じない市民と異端審問官を"悪"にしたいがために設定があまりにも無理矢理で雑。
"悪"の描き方が非常に稚拙。
最後の「船を海岸で飛ばす前に止めさせる」ってシーンでわざわざ警報を町中で鳴らして、結果、野次馬が大量に海岸に集まるんだが、
異端行為を行ってる場面に市民呼び寄せてどうすんねん。
【異端に触れたもの=異端になりうる予備軍】という図式が当然なわけで、見た人全員を異端で粛清する事になるが……
あまりにも異端審問官の存在の一貫性が無さすぎる。
完全に警察を無理やり異端審問官にした副作用。
その後のシーンで「星を見て感動する民衆」が必要になるからってストーリが雑オブ雑。
あらゆるところにある都合の良さに感じる違和感
最序盤に色々あってゴミ焼却場にプペルとルビッチが運ばれてそこ脱出するんだけど、ゴミ焼却場が完全に「マリオ64のステージ」なのよ。
ここではアクションシーンを見せたいという都合のせいで足場が急に動いたり鉄球とか飛んでくるの。ゴミ焼却場なのに。
🎄:。:+*𝐌𝐞𝐫𝐫𝐲 𝐂𝐡𝐫𝐢𝐬𝐭𝐦𝐚𝐬 *+:。:🎄
— 【公式】『映画 えんとつ町のプペル』 (@poupellemovie) 2020年12月25日
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感動の大冒険、そんなシーンあったか・・・?
ゴミ焼却場を脱出すると次はトロッコに乗って地下の洞窟(坑道)へ。
トロッコのシーンもビッグサンダーマウンテンとかスプラッシュマウンテンとかそういう感じのアトラクション感を魅せたいんだな~という感じで特に響かず。
まあ子どもが喜ぶので良いのではないでしょうか。
トロッコがたどり着いた坑道で、こいつと出会う。
炭鉱泥棒のスコップだ。
後にレジスタンスだと判明するんだが、こいつが「俺は無煙火薬で探鉱掘って泥棒してるぜ!!!」と後に爆発で使う無煙火薬の存在を猛プッシュしてくる。
そもそも世界観から火薬の存在が浮いてるのにわざわざ無煙火薬とアピール。
誰だって物語に慣れている人は「ああ、この無煙火薬使って雲を爆発するんやろなあ・・・」って想起する。
ものの見事にそうなるんだが。
それはもう伏線じゃないのよ!伏せてないの!ただの線!
映画を見る前にTwitterで感想をちらほら見ると「伏線が張り巡らされてる!」だの、「伏線の回収がすごかった!」だの、少しは期待してたんですけど
そりゃこんなクソデカい”線”、回収しないわけねえだろ!
って一人で終わった後怒ってました。
他にも伏線の話。
プペルに死んだ父親が乗り移ってる!?って展開になるんだけど、原作と一緒で気付くポイントが「父親と同じ照れた時の仕草」のみ。
「仕草」をしたあとにルビッチが「もしかして、父さんなのか!?」ってプペルが問い詰めるんだけど、所詮、その動作をしただけでプペルはその認識もないし、全く分かってない。
こじつけレベルの雑さ。
せめてTENETのダイエットコーラレベルの伏線だったらなあ。今までずーっと一緒に居たんだからさ……
一応、よーく見るとプペルを構成する胴体の部分の自転車だったり、耳のラッパが父親のものだったりも伏線(※劇中で回収されません)なんだが、いかんせんそのへんのパーツ普遍的なものだし、親父が死んで遺品を即捨てる不気味さを逆に引き立ててる。
プペルを毎日洗っても洗っても臭い伏線も「ルビッチがなくした父親から貰ったブレスレット」を探すために毎日ゴミ山で探していたという理由なんだが、”被差別者のメタファーとしての異臭"をパラサイト 半地下の家族のように表現しているのかと思ったら全然違ってガッカリ…マジで臭いだけかよ…
家族との絆か。親友との絆か。
家族との絆
解説したように、途中でプペルが途中で父親が憑依してるとわかるのだが、この設定を活かしきれてない。
原作ではプペルから「なくしたはずの父親のブレスレットは実はプペルの脳みそ」という開示がされるのだが、映画は逆で、ルビッチが傘の中にあるブレスレットを見ただけで脳みそだと不自然なほど一瞬で気づく。まあ、ここの不自然さの解説はもういいか・・・
"プペルに入った父親がロスタイムとして生前不足していた「父親らしさ」を身につける"みたいなストーリーだったら父親である理由も分かるけど無し。
プペルに憑依した父親も見たかった星が一緒に見られて終わり。
生前、父親がルビッチの事を「チビ」って呼んで、ルビッチが「ルビッチだよ」というやりとりをしているのがあまりにもわざとらしく、伏線かな?と思ったが、
最終盤のクライマックスで完全にプペルが父親の姿になったときも
「頑張ったな、チビ」
「ルビッチだよ」
と。
いや、親子の絆の話にするなら一番の見せ場ってそこでようやく「ルビッチ」って名前で呼ぶシーンじゃん……
ここで「ルビッチ」と初めて自分の子供の名前を呼んだら"父親の成長"も描けた良い父息子モノの映画になれたと思う。非常にもったいなかった。
友達との絆
友達がいないルビッチに出来た友達なのに、いつまで経ってもプペルは「ルビッチさん」と敬称付きで呼ぶし、毎日臭くなるプペルに対して「くっさ!」と割とダイレクトに言っていたりと、そもそも友達と呼べる関係性なのかすら謎のストーリーだった。
「友達なんだから”さん”付けしなくてもいいんだよ!」とかルビッチが言うシーンがあっても良かったんじゃないかな。
そこに突然プペルが父親ということになったもんで、完全に友情のストーリーではなくなってしまった。
最後はプペルがバラバラになってお別れって感じなんだけど、「プペルは実は父親なんだーー!!感動しろーー!!」って動線のせいで、父親とのお別れシーンになっていて、今まで歩んできた”ゴミ人間のプペルとしての人格”とのお別れという意識がゼロ。今までの90分はなんだったんだ・・・
星を見ることに固執した結果、家族との絆も友達との絆も中途半端な映画になってしまった。
エンドロールで余韻を感じさせろ!!!!(怒)
エンドロールを最後まで観て余韻に浸りたい人間なので、事情があるにせよエンドロールの途中で席を立っちゃう人に「もったいないなー」と毎回思ってるんですが、
エンディングの歌詞のサビの
Hello Hello Hello ハロウィン プペプップー プペル
の部分
なんだよ!「プペプップー」って!!!ギャグかよ!!
総括
この映画では僕は感動できなかった。何回も見たくなるほど伏線が優れてもいない。
(アニメ映画なら羅小黒戦記、何回も観たくなる映画ならTENETがおすすめだよ。)
要所要所でキャラと乖離した違和感ある自己啓発っぽいセリフを連発してくる。とにかく説教臭い。そこらじゅうに”西野の匂い”が漂う映画だ。
最後にこの映画を振り返ると、ルビッチは何もしていないのだ。
ただ「『星』を見たい」という強い信念を持っただけ。
プペルが謎の力で父親の船を引き寄せ、
気球はプペルがミシンで縫って、
エンジンはコネで技術屋に作ってもらって、
無煙火薬もコネで譲ってもらう。
異端審問官には職場の同僚が立ち向かう。
夢を持てばそれを信じた同志が手助けをしてくれる。
あれ・・・これってどこかで・・・
完。
(追記1/29 12:20
たくさんのコメントありがとうございます。もはやコメント欄の方が本編みたいな感じになってますが、匿名で意見を忌憚なく飛ばせる場を設けられて良かったです。皆様も是非。
あと、コメントで教えていただいたのですが西野さんのブログで言及頂けたようでビックリしました。ありがとうございます。
(追追記1/30 9:20
どうやらコメントの有識者によると、各所で動機面について追求されているようで、当記事の言及ではないかもしれないとのことでした。不正確な情報を載せてしまい誠に申し訳ございません。それにしても、全く文筆業を仕事にする事を考えたこともないズブの素人だったので元小説家志望やらライターやら言われると文才をお褒めいただいたみたいでなんか嬉しいですね。ありがとうございます。)
「動機」を重く捉えている人が大成しない理由 | 西野亮廣ブログ Powered by Ameba
https://ameblo.jp/nishino-akihiro/entry-12653042904.html
「動機は最初は小さくてもいい」というのは私もそう思います。自分も高校も大学も職場も選んだ理由はだいたい家から近いとかスラムダンクの流川みたいな小さなものだし。
ただ、動機を大きく、重要な物に見えるように補強していくのが物語なんじゃないかなと思います。
例えば、「『星』を見るのにはこれが必要だよ、集められる?」とか、「火薬を使って『星』を見せるには危険だけど、そのリスクをどうするの?」とか、「失敗したら命を落とすかもしれないよ?」(これは子供向け作品では適当ではなさそうだが)とか、様々な葛藤や障壁を乗り越えていく事で"覚悟"を描写して動機に説得性が増す。
ルビッチが『星』を見るための障壁を乗り越えていく描写が薄く、最後になんとなく全部揃って『星』を見れてしまったから、結果動機が小さく見えてしまっているのがこの映画の勿体無いところなんだと思います。
後出しみたいでごめんなさい。)